「嫌われてもいい」~メンタルクリニックの診療室で思ったこと~
人が怖い、対人恐怖
「こんなことを言ったら嫌われるだろうか?」
「相手が嫌な顔をした気がする、嫌われただろうか?」
よって
「行動を起こすのがイヤになる」
「人と会うのがイヤになる」
このパターンから抜け出せなかった。
メンタルクリニック(精神科・心療内科)に通うことでの変化
~境界知能・発達障害当事者Aの場合~
不安を持ちながらメンタルクリニックに行く。
やはり医師の態度というのは気になってしまうものだ。
ちょっと怖そうだな、忙しそうだな、こんなことでメンクリきてよかったのかなとか。
精神科というのはちょっと特別なところに思えるし、慣れない場所での作法というものは分からないものであるから尚更だ。
また行かなければならないのかと思うとちょっと憂鬱になったりもする。
それでも何度か通い続けてみる。
そもそも身体の症状と違って、精神の問題は自分で話さないと相手に伝わらないことばかりだ。
不安だと、すべてを漏らさずに伝えたくなるし、すべてきちんと伝わっただろうかと心配にもなる。
そうすると喋りすぎてしまうし、そうすると主治医は困ってしまう。
他の患者さんもいるし再診にはそんなに時間をさけないのが今の医療の制度でもある。
喋らなくてただ大人しくしているだけでもダメ、喋りすぎてもダメ。
対人恐怖があって元々コミュニケーションが下手なのにそんなバランス良くなんて難しいのである。
主治医はなんか困ってる感じだし、やっぱりめんどうな患者だと思われてるかもしれない。いやむしろ、明らかに嫌そうな顔をした、絶対に…
それでもやっぱり通い続けてみる。
薬は欲しいし、他をイチから探して行くのも負担だし、予約を入れてしまっているからキャンセルの電話をする勇気も出ない。
嫌われてるかもしれない、と思う人と関係を続けていくという経験をする。
そうすると、嫌われてても案外問題が起こらないということに気が付く。
仮に、失礼だなとか、そんな軽いことでメンクリに来るなと思われていたって、問題がないのかもしれないという発見である。
嫌われてても一体なんの問題があるんだ?という一種の開き直り的な考え方を体感として理解し始める。
私が言った(私にとっては)重要なことを主治医がすっかり忘れているという経験もする。
はは、これじゃ、私が言わなきゃよかったなっていう失言も覚えてないんじゃないか?
相手がこちらのことをそんなに気にしていないという経験をする。
相手がどう思うかを全く気にしないのも良くないが、気にし過ぎだったということである。そりゃそうだよ、1日にたくさん診ている患者の1人だ。
こちらの言動でいちいち嫌ったりしてそれを覚えてなんかいないだろう。
さらに詳しく誤解のないように書くなら、こちらのできる範囲で誠実に相手に接していれば嫌われたか・どう思われているかはそんなに気にする必要がない、ということである。
ここまで体感として理解すると「人と会うことがイヤ」という気持ちが徐々に薄れていく。あくまで、徐々にね。
その次は「行動を起こすのがイヤになる」という気持ちが薄れていく。
調子がいつもより悪いんだと自分から伝えてみよう、とか。
薬についてこうしてほしいと言ってみよう、とか。
少しずつ行動を起こせるようになっていく。
もしも、人と接することが苦手じゃなかったら、メンタルクリニックの診療室じゃなくて日常で学んでいたことかもしれない。
きっと私に足りなかったのは三次元の場所で人と関わり続ける経験だ。
今から学んでも遅くないと信じて、安全なこの診療室に通い続けてみようと思った。