境界知能で発達凸凹

劣っているが生きている

母と子という関係から抜け出せない

 

※独り言を書くことによる思考の整理を試みるブログです

 

人は普通、成長の過程で母親から徐々に離れていき友人を作り恋人を作り社会に出て自立する。

 

おそらく、私はそこで躓き続けている。

 

友人も恋人も先生も、不安な社会で生きていくうえで必要な母親の代わりでしかなかったのかもしれない。

不安な社会…学校などの集団では常に同じ人といてべったりした関係に見えるのに、会っていないときは全く連絡を取らない。

そして私の人間関係は複雑なようで案外単純で、懐くかどうかというだけである……… 

懐いていない人間には興味を持てていないのかもしれない

 

一体なぜ母親からの自立ができていないのか?

ということを考えたときに、そもそも母親と適切な関係が築けていたのか?ということを検討する必要がある

適切な関係とはなんなのか?という定義は難しいが、私の発達凸凹、自閉傾向により母親との適切な関係が築けなかったという可能性はあるだろう

というか、恐らくその時点で躓いているのだろう

勘違いしてほしくないのは、母親の愛情が足りなかったと言っているわけではない

それを受け取る装置が私の場合は他人からみたら歪なのではないかという仮説である……

 

それゆえに母親と密着していないのに、他者と接するときに母親への願望があるのではないかという奇妙な状況になるのか?

エヴァでいうなら、シンジくんから見た綾波レイという存在である

一見、それは友人であり恋人的なものであり、自立した自らの強い意志により大切にしたい世界であるように見えながら、根本はユイ…母親というグロテスクさが誕生してしまう

 

母親という視点以外から他人に興味を持つ必要がある

 

私にとって母親から乖離したところで興味を持てるのは本である

幼い頃の私にとって絵本の世界というのは、不安な世界に安心をもたらす第二の母親だったのかもしれない

私の歪な愛情受け取り装置に合う情緒的な愛情を多く注ぐことができたのは本だったのかもしれない

本から世界のことを知って、他人の物語に興味を持つということを三次元に徐々に持ってくるという遠回りな道を通って人並みになれるのではないか…… 

 

本から得たものなのか不明だが謎の正義感や博愛主義が自分のなかにある

それは発達障害の一部が持ちうる、ある種のウソのつけなさ、素直さなのかもしれない

愛と勇気だけが友達さ

それはとてもそう、ある種の幼稚さを抱える

その取り扱いを間違えると悪意がなくても大変なことになる…

エヴァで例えるならシンジ君が起こしたニアサーとかそこらへん

人類への愛を上手くコントロールしながら目の前にいる人に興味を持つという遠回りな道も検討しつつある

 

こんなことを考えていると自分だけが奇妙な世界に置いてけぼりになっているような錯覚に陥る

しかし発達凸凹がある人は多いからそういうわけではないんだろう……

それはそれとして人間はみんな根本的には切り離された個体でありひとりぼっちという真理は存在する

繰り返しにはなるがそれはみんなそうなのである……