境界知能と発達凸凹が判明した経緯①
無職になったぞ、どうしよう
さて、予期していないタイミングで無職になってしまった。
どうしよう。万年実家暮らしとはいえ、まぁ、働かねばならぬ。
うーーんと唸りながらインターネットを徘徊し、興味を持ったのはとある対人援助職。
人の役に立つ、働く初心に返ってやってみようじゃないか、いいじゃないか。
やってきたは説明会なるもの。
「向いていない人は明確です。空気が読めない人です」
私のことじゃね????
空気が読めない自覚はそこまでないが、いろんな集団に馴染めない。
そんな私が人に関わることがメインの仕事についていいのか???
無職、発達障害疑惑と向き合おうと決意
なにを隠そう、以前に受けていたカウンセリングで発達に凸凹があるかもねと言われたことがあったのである。
ADHDはいっぱい動く人でしょ??じゃあ私は大人しいからASDかしら。
ASDだったらやっぱりほら空気読めないのよ、それじゃあの対人援助職は向いてないかもねぇ。確かめなくっちゃ。
なんてふんわりした知識を元に考えながら精神科を予約。
発達障害をみれる精神科って少ないけど、なんといっても無職ですから、こちらの予定はガラ空き。少し遠くにだって、平日だって、何時だって行けちゃうもんね。
それでも予約が取れたのは一か月後。
そんなに待てないって!!!
無職、WAIS-IVを予約
発達障害の診断には必ずしも必要ではないが、心理検査が参考になるらしい。
そしてその精神科では他の施設の心理士さんに委託しているとのこと。
へぇ~~~。そっか。なんかお医者さんに困ってること説明するのも難しいし、検査持って行ったほうが分かりやすそう。
なんせ私には、困っていても周りから「みんなのほうが大変なのよ」なんて言われたりして1人で悩み続ける経験が多いのである。
みんなのほうがたいへんなのよ……そうだよねぇ、そうだよねぇ、わたしなんてまだ楽よ、でもこまったなぁ、うーん、つかれた、なんですぐこんな疲れちゃうんだろう、こんな最初でなんで躓くんだ…1人でもんもんと…
あ~~!そんな経験もうしたくないわ!お医者さんにもそんなこと言われたら心が折れちゃう。WAIS-IVってやつ受けに行こう。
それにお医者さんに話してから検査受けに行ってくださいねなんてそんな悠長に待てないし。数万するけど、お医者さんの判断で保険がきくってわけでもないし。
発達障害じゃなくても苦手なものと得意なものが分かるんだったら仕事選びにも参考になるからいいじゃない。
よし受けにいくか。
インターネットで予約をぽちっとして、わりとすぐに取れてよかったなぁ、なんて思う。
こうしてWAIS-IV(ウェクスラー成人知能検査第4版)の予約を取りました。
境界知能と発達凸凹が判明した経緯②へ続く。
発達障害で幸せを見失った人は『されど私の可愛い檸檬』を読め
小説『されど私の可愛い檸檬』感想文 ネタバレすこし注意
この本は舞城王太郎による3篇の小説集です。
全246ページ。1篇がそんな長くないので手に取りやすいかなと。
「トロフィーワイフ」感想
舞城王太郎らしいスピード感のある独特な文体とサイコホラー感満載のなか、幸せってなんだろうってことについて考えさせられる物語。
幸せってなんだろう…ってあまりに陳腐な言葉すぎて自分で笑ってしまいますね。
いやでも、幸せって特別なものじゃなくて普遍的なものなんですよっていう。
周りのほうが要領良くて眩しく見えたり、自分自身のことが嫌になったりして落ち込むことがなにかと発達障害や境界知能だと多いと思います。
そうして普遍的なもの、当たり前のことを見失ってしまうときってありませんか。
それを取り戻すきっかけをくれるのがこの物語です。
「ドナドナ不要論」感想
幸せを考えたあとは悲しみに目を向けていくお話です。
ドナドナのような、かなしい歌がなぜあるのか。
かなしいことをプラスに考えようとか、そこから得るものがあるとか、嫌なことがあったらその分良いこともあるんだとか、そんな雑でポジティブな言葉が私は嫌いです。
発達障害というと超人的な能力を持つ人もいるようですが、私は境界知能であり、低いところで凸凹しているのです。
なにもいいところがない。ダメでしかない。かなしいものでしかない。
もう嫌だ!!!!!!!
そんな私でも、悲しみ「だけ」の人生じゃないなと思えたのがこの物語です。
発達障害などの問題はとても大きいけれど、人生がそれすべてに集約されたり、それだけで表現できるものではないはずだと思えます。
人生はもっと複雑なものなんだ。
「されど私の可愛い檸檬」感想
元も子もないことを書いてしまうと、この物語の男の子は発達障害だと思われます。
また、発達障害という言葉を使わないものの、そうではないかと周囲から言われるようなシーンがあります。
人に好かれやすい場面もあり、素直で真面目で良い青年に思えるところもある。
けれど妙に要領が悪いところがあり、なかなか決断をすることができなかったり、暗黙のルールが分からなかったりする。
確かに困ってはいるんだけど、自覚するのが難しく、精神科に行ってもそれを上手く表現できない。
発達障害の診断基準そのものやステレオタイプのイメージ像ではなく、なにかが妙にスコーンと抜けている違和感がとてもリアルに描かれています。
「発達障害という言葉を使わない」ということの良さが小説だからこそあるとおもいます。
発達障害の人が主人公の小説ではなく、日常に困っていることがある人が主人公の小説なのです。
主人公の悩みのどれかには殆どの人は共感を覚えるのではないでしょうか。
人間は「定型発達」と「非定型発達」のどちらかではないということが感覚として分かる内容とも言えるかもしれません。
どうにもできない困っていることを抱えながら、ひとりの人間としてどうやって周囲をみて折り合いをつけて生きていくか。
その答えのない問いに向き合うときに支えになるような小説です。
おわりに
陳腐な言葉で感想をつらつらと述べましたが、それは私の能力のなさからくるものでして、『されど私の可愛い檸檬』は頭の中がブン殴られるような眼がギャンギャンに覚めるような素晴らしい舞城王太郎節です。
幸せを見失った人は読めと書きましたが、本当に調子が悪い人は今読むべきではありません。まあ調子が悪いと小説を買って読もうとはならないとは思いますが。
悩んでいるときに小説に救われることってありますよね。
その瞬間をブログに残したいなと思います。
境界知能ですが、ブログを書きます。
知能が境界域で発達凸凹の当事者です
はじめまして。まずは自己紹介をしようと思います。
年齢は20代後半。性別は女。
性格は不安が強く内向的。
幼少期から日常に困難を感じつつも、とある中堅大学を卒業。
なんとか就職するも職を失う。
自分のことをよく知りたいと思い、知能検査を受けた結果、全検査IQ79。
一番低い指標に至っては71。
IQ70以下は知的障害となるようです。
私は知的障害グレーゾーン、境界知能と呼ばれる部類と判明。
細かくみると目立ったバラつきがあり発達が凸凹していることも判明。
発達障害が疑われるという認識でよいのかなと思います。
そして精神科に通院治療しながら、再就職をゆるく目指しています。
なぜ境界知能の当事者ブログを書くのか
さて、ブログを書くのはなぜか、なんのためなのかというのを初めに書いておいたほうが良いでしょう。
なぜなら境界知能や発達障害などとてもデリケートな話題について書き、なおかつ専門家ではなくただの当事者なのですから。
簡単に言ってしまえば、「自分や、自分と似た人間、またその周囲の生きやすさを模索していくため」です。
知能検査を受けた時には境界知能という言葉を知りませんでした。
結果の説明を受け、境界域であると知った後に境界知能について調べ始めました。
しかし、あまり情報がないのです。
情報過多のインターネットの時代にとても不自然な感じがしました。
次第にそのことに納得がいくようになりました。
そもそも知能検査を受けて自分のIQを知っている成人は少数派だと思われます。
また、はっきりとしたIQ70以下の知的障害であれば幼少期に検診や言葉の遅れなどから診断に結び付き、療育手帳を取得して福祉と繋がって成長していくことが多いと思われます。
グレーゾーン、境界域であればどうでしょうか。
もし幼いころにそのような疑惑があっても本人が知る機会はあまりないように思われます。
境界知能というだけでは障害ではなく、手帳や福祉の支援の対象ではありません。
また境界知能そのものに対しては治療法はなく、研究対象ともされないような印象があります。
様々な分野や理由から啓蒙され周知されるようなものではなく、とても触れにくいものだということが分かりました。
しかしやはりインターネットはアンダーグラウンドな側面がまだあるようです。
「ギリ健」というインターネットスラングを目にすることとなります。
「ギリギリ健常者」という意味です。
主に知的障害に近いがそうではない存在、そこから広がって発達障害グレーゾーンに見える人を指す蔑称として知られているようです。
そういえば以前にも見たことがあり、なるほどなと思いました。
大人の発達障害、または発達障害グレーゾーンというものの認知はこの10年ほどで世間にかなり広まりました。
うつ病などの理解も広まり、精神科への繋がるハードルは低くなったのではないでしょうか。
それに伴って境界知能であると判明する私のような存在は増えると思います。
次は境界知能という言葉が広がるのかもしれません。
そのときにインターネットに出てくる情報が侮蔑するような言葉ばかりでは絶望してしまう人が多くなると思いました。
私が生きやすさを模索する様子を書き残すことで自分自身のためになるだけでなく、誰かの絶望を和らげることができるかもしれないと思いました。
少なくとも侮蔑ではないものをインターネットに置いておきたいと思いました。
また境界知能であっても人それぞれ様々なことで差があります。
境界知能という大まかなカテゴライズで絶望したり劣等感に苛まれることには何の意味もないと思うのです。
このことから、「当事者A」として一例をインターネットに書き残しておこうと思いました。
境界知能という大きなカテゴリーではなく、「当事者A」という具体的な存在として生きやすさを模索していきたいと思いました。
AさんがいるならBさんもCさんもいるはずで、その人たちは境界知能であっても私と同じところもあれば違うところもあり、なにが生きやすいかもそれぞれで良いのです。
具体的な存在であることでその当然のことを私自身も読んでくれた人も認識して、一旦放り込まれたカテゴリーから個人であることを取り戻せるのが当事者がブログを書く大きなメリットだと思っています。
無駄に長くなりました。今後、端的にまとめます。
おわりに・注意事項
当事者によるブログです。訓練を受けた専門家ではありません。
私なりに偏ったり間違ったりした情報は避ける努力はしますが、なにかありましたらコメントにてお知らせください。
その他、感想なども気軽にコメントをくれると私が喜びます。
それでは、長文を読んでいただきありがとうございました。
参考:
知的障害(精神遅滞) | e-ヘルスネット(厚生労働省) (mhlw.go.jp)